幼稚園児のボクのお母さんに小さな事件が起こったのです。それは、ボクにとってはとても大きな事件になったんだ! その日お母さんがボクを連れて幼稚園に向かっていた時、突然コートを着た男の人が現れて急に僕たちに近づいてきたんです! その後、慌てたお母さんはボクの手を引っ張って、近くの工場に駆け込み「助けてください!」って叫んだの…近づいてきたおじさんは悪い人だったってこと。 ボクは、この時お母さんは強くないのかも? だから僕が守らないといけないんだ!と思ってしまったんです。 だからこの日からボクは、どうしてもお母さんには甘えられなくなったみたい。でも、その分強くなっていくんだ! ただ、なぜか僕の精神年齢は年長さんで止まりました!(笑)
1970年代は各学校に1人は「番長」がいるような時代やった。僕もなんとなく「番長」的な存在だったんやけど、その辺の番長とは一味違って「お節介番長」やったんよね。
小学6年生のある日、仲間が隣町の番長グループにいじめられたから、仕返しに行くことにしたんよね。でも普通の番長なら偉そうに「おっしゃー!殴り込むぞ!!お前ら、オレについてこーい!!」となる場面やけど、お節介番長はちょっと違ってて、「おっしゃー!殴り込むぞ!!...いつ殴り込みにいくか決めたいから、みんな、今週の予定教えてもらえるかなあ?」
「ふんふん、、〇〇くんは火曜日がお習字で、水曜日はそろばん塾で来れないよね。△△くんは少年野球で、ほぼ無理だよね、、、
空いてる日が多い木曜日にしよかー!でも、木曜日にそろばんがある✖✖くんと□□くんは来なくていいからね。」
そんな風に、みんなの予定を合わせてから殴りこみに行ったんよね。(笑)でも最初から心の中にあったのは、「僕のせいで、みんなにケガさせたらあかん!」だから、こう言うたんよ。「みんなは怪我するから手を出したらあかんで!自分が相手の番長とサシ(一対一)でやるから見といて! . . . でも、もし負けそうになったら助けてな。」って。(笑)
ちなみに、番長同士の一騎打ちは一瞬で終わるんよね。小学生のケンカなんか、髪の毛掴んで、膝でガーン!で勝負はつくから。勿論、ボコボコにされて歯が折れることもあったよね。(笑)
ひたっすら改革しまくった3年間やったなあ。
しょっぱなから中学1年で生徒会副会長に選ばれてすぐに、小学生の頃からタバコを吸っていたのがバレて先生の心を改革?した(笑)のをはじめ、中学2年で野球部の部長になって、同級生の部員から文句は言われるものの、それまで続いてた意味わからん昭和的な、いわゆる後輩への“しごき”を徐々に無くし改革していった。
それに、3年生になると生徒会会長になり、それまでの決まり事で意味わからんもんは無くしたりして、改革していった。
更に、夏の終わりに野球部を引退した直後!文化部に入部して、文化祭の実行委員長にもなって、今までのダラダラした文化祭を変えるために、毎年人が集まらない体育館に、全校生徒を2部制に分けて完全集客し、自らバンドを組んでステージに上がって盛り上げた(笑)。
本当は制服を変えたかったけどその夢は実らんかった。
高校生活はひたっすらバイト。
たくさんバイトしたけど、一番長く働いた仕事は、喫茶店のウエイターやね。
常連さんからは “看板娘”ならぬ”看板息子"と呼ばれて、めちゃくちゃ可愛がってもらった!
勉強の方はと言うと、高校2年生になって「アホなことばっかりしてるけど、大学には行きたいな~」と思ったんやけど、僕の行っている学校はその頃はまだ新しい高校で、大した大学に行ってる卒業生は皆無だった(笑)
だから僕は、放課後になると「バイト行ってくるわ~」って言いながら、親に借金したお金で友だちには内緒で、こっそり予備校に通ってたんよね。2年生で(笑)。ところが!そこで一生懸命勉強していたら、ある日のクラスで予備校の先生が「頑張って勉強するんは当たり前で、その辺の大学なんか入ったって意味ないぞ!クズやぞ!。せめてランクの上の大学に入らんと社会では人間として認めてもらえんぞ!」って言われて、僕はそれを聞いてブチーーって切れてもうたんや。
なぜなら、僕の地元の友だちの中には、貧乏で大学どころか、高校にも行けなかった中卒のやつだって何人もいる。つまり、この先生は僕の友達をクズ呼ばわりしよったなあ!価値がないやと~!!そう思ったらなぜか体中の血液が、まるで逆流しだした感じがして、めちゃくちゃ悔しくなったのを今でも忘れへん!だからそのとき決めたんや。もうええわ!もう大学には行かんで、クズを選んだるわ!!そして大卒のやつなんかに負けんぐらいに、絶対に幸せになったるからなあ!!と思って、予備校はやめたんよね。
高校を卒業してある日、大失恋したんよね。それをきっかけに、勢いで大阪の家を飛び出して、夜行バスで何のツテもない東京に出て来た。まぁ、家出やね(笑)
バス代を支払ったら全財産は1万円もなくて、「この先どうしよ~」と喫茶店で悩んどったら、たまたま30歳くらいの男性に出会ったんよ。あれこれ事情を説明したら、「それは大変だね。今日泊まるところがないなら、家に来なよ!」と、ついていったら、同棲中の彼女さんとその人が喧嘩になって、彼女さんが出ていってしまったのです。その後、その人が前職に勤めていた会社の寮付きの仕事を紹介してくれて、寮の保証人にもなってくれて、なんとか生活できるようになったんよねえ(笑)。お詫びにその彼女さんの引っ越しを手伝わされたけどね(笑)世の中出会いやな~。ほんま、感謝してもしきれないですね!
東京に来て2年後、20歳の頃の話。
住み込みで仕事をしながらアーティスト活動をしていた僕はなぜか世の中を恨んでいた。(笑)だから、「世の中狂ってる~~!」っていうことを表現するような詩ばっかり書いていた。この頃はなぜか哲学的なこともたくさん考えてた(笑)
「何のために生きているんやろう?」「何で生きなきゃいけないんやろう?」
そんな状態で大阪の親友に手紙を出したもんやから「お前狂ってる」って返信が来た(笑)。
その翌日、親友は心配してわざわざ車で東京に迎えに来てくれたんや!
「とりあえず、大阪に帰ろう!」
親友に優しくそう言われた僕は2年間の東京生活に幕を閉じて、大阪に帰ることに決めたんよ。やっぱり気づかないうちにちょっと病んでたみたい(笑)。
時代はバブル。ディスコ全盛の時代に、日本初の大型クラブを大阪で作ることになったんやけど、運命的に広告代理店と一緒にプロデュースをまかされたんよね。
お店を盛り上げるために色んなことに挑戦したで。
日本では誰も知らなかったエスニック料理(トムヤムクンとかナシゴレンとか)を出したり、ワニのステーキ肉を食べられるようにしたり、日本ではまだ流行っていなかったコロナビールもガンガン売れたで~。
更に、海外からいろんなミュージシャン、ダンサー、パフォーマーを招聘してショータイムなんかもしていたしね。
結果的に、ものすごい繁盛してもうて、坂本龍一さんをはじめとして、たくさんのアーティストや、芸人さんやモデルさん、有名芸能人が来たねえ。
バブル初期のクラブに詳しい人なら「伝説のクラブ」として知ってる人もおるんちゃうかな。デューク更家さんや、TRFのボーカルYU-KIちゃんもブレイクする前に普通のお客さんとしてよく来てたよ!(笑)
大型クラブの大成功を皮切りにいろんなお店のプロデュースをしていたら、いつの間にか25歳にして不動産会社の店舗の企画室長になってもうたんよね。
この頃はバブルで羽振りも良くて、当時からお金には興味がなかったのにどんどん勝手に増えていったんよね!
真冬にイタリア社製のオープンカーに乗って、黒の毛皮を羽織って、すべての指にはギラギラの指輪。(笑)たまに百貨店に行くと30万円分の買い物をキャッシュで支払う。そんなムチャクチャな生活をしとったんよね。
でも、そんな生活を続けていた26歳のある日のこと、いつものように助手席にはシーズ犬を乗せてオープンカーを走らせていたときに、突然気づいたんや!
「ヤバイ!!この今、手にしている金はまやかしや~~~!!!」
どういうことかって言うと、「今あるお金は企画力で生み出したお金や。けど、20代の若い感性で企画したものやから、当然発想が新しい...ということは、歳をとればとるほど感性は鈍り、発想が乏しくなって稼げなくなる!もしや、ここが人生のピークになってしまうかも!?」と突然気づいてしもうたんよね。
「あかん!このお金、全部自己投資に使わなあかん!」
まやかしに気づいた僕は、イタリアのオープンカーも売り払って、20歳の頃から憧れていたニューヨークに住むことにしたんよね。
NYでは仕事もせずに、お金がすっからかんになるまで自己投資しまくったんよね。
映画やミュージカル、メジャーリーグの野球に、プロバスケットボールの試合を観たり、ロンドンや、パリなどヨーロッパの三ツ星レストランで一流の料理を食べたり、五つ星ホテルに宿泊したり、世界の最高のエンターテイメントを体感しに行ったり、飛行機もファーストクラスに乗った。けれども、決して調子には乗らなかった。(笑)というのも、目的はあくまでも「学び!」まるで学生の修学旅行で、見る、味わう、聞く、触れる、感じる。五感で本物を体験しまくった。
そこでプロの仕事や想い、積み重ねて来た歴史と言うものがどういう意味を持つのか?をできる限り感じたかったんよね。それで、若いうちに自分の感性の幅を広げておきたかったんよね!
本当にお金がすっからかんになるまで、全力で体験し、感性を磨きまくった!
それが今の仕事に相当役立ってるんよね。
だって、感性が磨かれると頭で考えなくても直感で分かってしまうんよね。
つまり自己投資は「心と感性の筋力アップ!」ってことやんね。
26歳で行ったニューヨーク。
2年後の28歳の時に、グリーンカードを申請したら、相当低い当選確率にもかかわらず、奇跡的に当たったんよね!
それで、「よっしゃー、これからはアメリカと日本、2国間でエンターテイメントを輸出入する仕事をやるでー」と決めて、日本にいた奥さんをアメリカに呼んで一緒に暮らすことにしたんや。
それからしばらくして、子どもが生まれることになったんよね!
ところが、当時のNYはエイズの話題が多くて、NYの病院で出産するとエイズになるかも!?っていう、今考えるとあり得ない噂があったんよね。
今でこそ「なんじゃそりゃー!ただのデマやん!!」って分かるけど、あの頃はそんなことも分からへんかった。
でも一応ということで、「一旦日本で出産して、一年後くらいにまたアメリカ戻ろう」と思って29歳で日本へ帰国したんよね。
日本に帰国した頃には、自己投資でお金がスッカラカンになってもうたから、「帰国中の1年くらいは何かバイトせなあかんな~」と考えていたら思い出したことがあったんよね。それは、1年くらい前にNYでタダで寿司が食べられる大きなパーティーがあるって聞いてぶっちゃけ、お寿司目的に参加しとったら、そこで出逢ったとある女性をいじって遊んでいて、結果その方が、そのパーティーの主催者でもある会長さんの奥さんだったんよね(笑)。その会社というのが、あの福山雅治くんや、サザンオールスターズが所属しているアミューズという大手芸能プロダクションだったんよね(笑)。それがきっかけで、会長さんに紹介された時に、その会長さんをいじりまくってたら、スカウトされたんやけど、即答で断ったんよね。だってそんな世界に僕が合うわけないと思ったし、興味なかったからね。だから、そのことをすっかり忘れていたんやけど、「あ、そういえば芸能界にスカウトされとったな。きっとこの世界はギャラがいいはずだから、ちょっとバイトしてお金を貯めよう!」というホント軽~~い気持ちで改めて会長にお会いして、紹介されたラジオ番組のプロデューサーに会わせてもらって、またその人を軽~~くいじっていたら、なぜかそれがオーディションだったみたいで(笑)、即合格で、即レギュラー番組が決まったんよね。
1年でアメリカに帰る予定やったのに、レギュラーの仕事がどんどん決まり出してもうたんよね。でも心の中は、
「あかん!ニューヨークに帰れなくなる~」って焦ってたんよね~。
「じゃあ、好き勝手にムチャクチャやってクビになっちゃえ!」と思って、捨て身で仕事をやり出したら、なぜかそれが逆にウケてもうたんよねえ~(笑)
そしたら、レギュラー番組を同時に7本持つことになってしまって、完全に帰国のタイミングを失ってもうたんよ。
ムチャクチャやり過ぎて、ちょうど暇になったタイミングで小学校のPTA会長のオファーが来て、一度は断ったんやけど、誰もやる人がいなくて、入学式と卒業式の挨拶だけしてもらえたら、それだけでいいからと言われたから引き受けることにしたんよね。
そこで、どうせやるなら、"PTA会長”という肩書きは小学生にはかたすぎると思うて、直感でレモンの被り物をかぶった「レモンさん」と言うキャラクターで活動することにしたんよ!
厚生労働省主催のAIDS啓発イベント「RED RIBBON LIVE」総合MC
エイズが流行していたニューヨークから帰国した30歳の頃の体験談をラジオ放送や、自分のトークライブなどで啓発していた。それを知っている友だちからの紹介で、厚生労働省から「エイズの啓発のプロジェクトリーダーをやってほしい」と依頼が来たんよね!
それで、これまでに、数多くのアーティストやタレント、芸人、スポーツ選手、AV俳優などいろんな著名人を巻き込んで2006年からレッドリボンライブがスタートして今まで継続してるんよね。
※小田和正・桜井和寿(Mr.Children)・TERU , TAKURO(GLAY)・アンジェラアキ・絢香・加藤ミリヤ・若旦那(湘南乃風)・Hyde(L'Arc〜en〜Ciel)・May.J・Little Glee Monster・西川貴教(T.M.Revolution)・押尾コータロー・岡本真夜・高嶋政伸・三浦大知・鈴木奈々・はるな愛・TKO・AMEMIYA・ミラクル光・ホリ・たんぽぽ白鳥・サンドウィッチマン・こにわ・かもめんたる・蝶野正洋・棚橋弘至・中邑真輔・所英男・鈴木徹・加藤鷹・蒼井そら・紗倉まな・津田大介(ジャーナリスト)・宮台真司(社会学者)・小松成美(作家)・ヨシナガ(個人サイト「僕の見た秩序。」管理人)など
大阪大学の非常勤講師。10年以上前の開始当初から、僕の授業形態は講義型ではなく、今で言う板書などは一切行わないワークショップ中心の内容でやってたんよね!やっと時代が追いついたかも!?
「絶対受けておいて損はない講義」として、その噂は先輩から後輩たちに伝わり、通称「出会い系講義」と噂するものもおったんよね!(笑)
通常は2~3年で入れ替わる非常勤講師なのに、現在まで11年継続中の人気講義やで!(笑)(2017年時点)
上の娘が高校に入学したタイミングで娘から家族会議の議題に「英語の勉強をしたいからこの家に留学生を受け入れられないか?」という議題が上がったんよ。
山本家はこんな感じで何か大きな決め事をするときには、家族で会議することになってるんやけど、その家族会議で「OK!」となったから留学生を受け入れることにしたんよ。
この活動は現在も続いとって、これまでに述べ20カ国以上27人の留学生を受け入れたんや。(2017年時点)
留学生の中にはテレビ東京系列の「YOUは何しに日本へ?」に出演してたり、リオオリンピックでの現地リポーターに抜擢されたやつもおるし、我が家に来たシンセキが今は世界中にいてるんよね。まさに!We are シンセキ!
全国こども電話相談室・リアル。2008年10月5日から2015年3月29日まで毎週日曜日の朝に放送されていた子どもたちのための相談番組。
前身番組『全国こども電話相談室』から数えると50年の歴史的なラジオ番組でパーソナリティを務められたのは幸せやったね。
いろんな年代やいろんな人、みんなで農業して仲を深め合ったり、囲炉裏を囲んで悩みを打ち明け合ったり、みんなで支え合える場を作ることを目的にして、2008年栃木県の佐野市にシンセキ村農業プロジェクトをスタートさせたんよね!
"稲刈り&レモンさんのセミナー”を体験しに企業の人が来たり、引きこもりの子を連れていったこともあったな~。
NKH バリバラ。実は僕は前身の"きらっといきる"をやっているときに「僕がやっている意味がない」から辞めたいと言ったことがあるんやけど、プロデューサーに「じゃあ、どんな番組だといいの?」と聞かれ、「障害者のバラエティー番組や!!これは面白いで!でも、NHKじゃあ、どうせ無理でしょ!?」と答えると、まさかの「それは僕も考えていたよ!やろうよ!」の一言でバリバラが生まれたんや!
日本赤十字社の献血推進キャンペーン”LOVE in Action”
レッドリボンライブの活動を日本赤十字社の上の方が聞きつけて、献血推進の活動を手伝ってほしいと依頼されたんよね。一旦はお断りしたものの、日本の献血事情を知らされて、またまたお節介心に火がついて(笑)結局、LOVE in Actionプロジェクトをプロジェクトリーダーとして立ち上げることになったんよね。
それと同時に始まったラジオ放送"Love in Action"は2009年10月から何度かの休止を挟みつつ、2017年12月までやってたんだよ〜
なぜ僕が、被災地支援や社会活動をするかと言うと、気づいたからよね。
それは、僕たちの命は、名も知れない会ったこともない人たち、つまり、めちゃくちゃ沢山の“お陰様さんたち”に支えられてきたということに。
だから、この命のバトンを繋いできてくれたおじいちゃんや、おばあちゃん、ひいじいちゃん、ひいばあちゃんたちの分まで、支えてもらった命の恩返しをしているだけのことなんよね。
今までの本当に“かっこいい大人”とは、そういう“感謝”に気づいて、行動している人たちばっかりなんやな~と。だから、まだ気づけるきっかけがない人たちに、伝えるお節介が必要なんやと感じてるんよねえ。
だから、We are シンセキ!のみんなと一緒に、いらんお節介じゃなく、いるお節介をしていきたいんよね!
ボクは大阪の門真市で生まれたでちゅ! 門真市はね、僕の大好きな松下幸之助しゃんの会社があるんでちゅよ~! 僕の本に載っている写真の中に、バケツに入っている写真みつけた~?よく近所の人に預けられていて、お留守番している時には、好きでバケツに入っていたでちゅ。 とても落ち着くにょ。逆に広いお部屋は苦手でちゅ…大きくなるとバケツに入れないから大人になりたくないにょ~(泣)
シュウさんが近所の人に預けられていたってことは、つまり、周りの人のお節介で育てられてきたのね! そこで、気がついたら”包まれたい願望”と、”包みたい願望”がバケツの中で生まれたんだって!(笑)これでわかったわ! シュウさんは人とつながることが好きで、人に囲まれていると安心で、いつも色んな人を巻き込んでリーダーシップを発揮しているのは、ただの”お節介シップ”だったのね!(笑)